ただの、新型コロナ自粛生活日記です。
登れない、働けないということ以上に、自分が人間社会の一員であることを再認識しています。
例えば、自分より感染対策レベルが低そうな人を見ると、気になります。あまりに温度差があると、心に引っ掛かるものがあります。
それは、「自分は我慢しているのに。」という心の狭さもあります。が、様々な社会的観点で、「もうちょっと我慢していただければ、公共の利益になります。」という使命感を感じることもあります。
この辺の加減、言い方は非常に難しいので、まだ何も言えたことはありません。ただ、昨日の高尾駅周辺は先週に比べて相当空いていたので、報道の有難みも感じます。
反対に、自分より感染対策レベルが高い人の視線が怖い、とも感じています。
例えば、屋外では飛沫感染だけ気を付ければ、エアロゾル感染は無視して良さそうと思っている私は、すれ違うときになるべくソッポを向いて声を出さないくらいの対応です。正直、スーパー内ではマスクはしても、道路のすれ違いレベルならマスク必須とまでは思っていません。
一方、屋外でも完璧に近いガードを固める人は、横断歩道ですれ違うだけでも小走りになって迂回したりします。
他にも、自転車で運動しても、「~~なんて、家から何kmも離れているだろ!」とか、「山間部を走れば年配者が多い村落を通るだろ!」という声が聞こえて来そうで、ビビります。(食堂などに寄らないので、私がウィルスを振りまく可能性は相当低く抑えられているはずですが・・・。)
公園の雲梯(うんてい)とか鉄棒も、「接触感染は口に触れる前に手洗いすれば、ほぼ防げるはず。」と思うか。「無駄なリスクは、全て避けるべし。」と思うか。
この2つの話は、表裏一体です。
また、自分自身の感染対策も日々変化させるべく、ニュース、専門家先生の発言にも敏感になっています。
自分自身の立ち位置が日々変わるぐらいだから、「自他の位置関係比較は、超ショボい。」という割り切りも必要なんでしょう。
でも、そこまで強くもなれないですね。少なくとも僕は。
我が道を行くためには理論こそが大切とは思いつつ、周りの動静も気になるというのは、人間らしい姿なんですかね。
言っても仕方ないことはこの辺にして、出来ることをやりましょうか。